長崎の名所、観光地★長崎の名所、観光地◆大浦天主堂 国宝に指定されている。 フランス人プチジャン神父によって、元冶元年〔1864年〕に建てられた木造ゴシック造りの日本最古の教会 西坂の丘で殉教した26聖人に捧げる為に建てられた、正式名称は「日本26聖殉教聖堂」と言います。 ◆グラバー園 安政年〔1858年〕諸外国は通商貿易を求めて相次いで来航し、幕府に開港を迫った。断ってばかりはいけないと、感じた幕府は英国、米国を始めとした5カ国と修好通商条約を締結した。翌1959年 長崎は、横浜、函館と共に開港され、外国との自由貿易時代と突入していった。幕府は、外国人の住む家や活動の拠点となる場所を確保する為、東山手、南山手、新地、出島などの地区一帯に外国人居留地が形成された。居留地が廃止される明治32年の40年間長崎は新しい自由貿易港として繁栄した。居留地が廃止されて、洋館が残り、昭和45年次第に少なくなってきた洋館を保存しようと、グラバー邸のある南山手の丘を整備、グラバー園が誕生した。 ◆東山手洋館群 7つの洋館が建ち並ぶこの地区は、洋館保存地区になっている。7つの洋館の内4棟は古写真資料館、埋蔵文化財資料館、地球館などになっている。 ◆孔子廟 儒学の祖、孔子の遺品を祭ったことに元を発する。長崎では1893年に創建された。1982年に中国政府の多大な助力を得て日本で唯一、中国人による孔子廟となった。廟内の瓦などに見られる黄色は皇帝に色を、朱色は魔除けと喜びを表しているそうです。 ◆唐人屋敷 貿易港で栄えた長崎は古くから中国との交流があり、17世紀に入ると多くの中国人が散宿するようになっていました。しかし幕府の鎖国政策により1635年に中国貿易が長崎一地に制限されてからは、蜜貿易が増加し問題になってきたため幕府はこの蜜貿易とキリスト教が広まるのを防ぐ対策として1688年現在の館内町のほぼ全域に唐人屋敷の建設にとりかかり、翌年の1689年完成。中国人を住まわせました。レンガ塀に囲まれその外側を水堀やカラ堀で囲み、さらにその外側を竹垣で囲んでいました。 入口には2つの門が設けられ、番所で出入りがチェックされていました。 内部には、長屋が数十棟並び、約2000人前後の収容能力がありました。 1859年開国後、廃屋化し1870年消失しました。現在当時の石垣など一部既存しています。 ◆眼鏡橋 寺町の興福寺の2代目住職、黙子如宝が1634年〔寛永11年〕に架けたといわれる日本最古のアーチ型石橋。 ◆宗福寺 国宝に指定されている。 長崎の唐寺を代表する寺で、寛永6年〔1629年〕福建省出身の人々に招かれた明僧超然が創建した黄檗宗の寺院 ◆興福寺 元和6年〔1620年〕中国僧真円が航海安全を祈願して、この地に小庵を造ったことに始まります。 港を見下ろす風頭山の山腹に、寺院が並列する寺町の中ほどに、広いゆったりとした南方風の境内を持つ興福寺はかって日本の中の中国だったのです。 雄大な朱色の山門により「あか寺」として市民に親しまれています。我国最初の黄檗禅宗の唐寺。 ◆諏訪神社 地元では「お諏訪さん」の愛称で親しまれている鎮西大社で、海の守護神などが祭られている。毎年10月7日から9日の長崎くんちの舞台として有名。国際都市長崎ならではの、英文おみくじが人気。 信州の諏訪地域にあるのが本社で、全国に1万もの分社があり、その中の一つ ◆新地中華街 1702年〔元禄15年〕貿易物資搬入の効率化、密輸防止、物資の盗難防止の為、海を埋め立て築島を造り倉庫を建てる。幕末から明治維新にかけて唐人屋敷の廃止により、中国人がこの地に移り住み現在の新地中華街に発展する。 横浜、神戸に次ぐ日本3大中華街の1つ。 ◆亀山社中 1865年〔慶応元年〕薩摩藩などの援助により坂本龍馬が同士と組織した、日本最初のカンパニーといわれる結社 海運業を忠臣として薩長同盟を基軸とした倒幕運動に参画.幕末維新史において重要な役割を果たした。 ◆シーボルト記念館 フィリップ・フランツフォン・シーボルトは1796年2月17日ドイツ連邦共和国バイエルン州ベルツブルク市の医学者の家に生まれる。その後ベルツブルク大学医学部時代は、医学ばかりではなく動、植物学や民族学など学びました。この広い科学的知識が後にシーボルトが日本の調査、研究をする時の大いに役立ちました。シーボルトが残した功績は1823年シーボルトが出島商館医として長崎に派遣されました。日本に滞在中は、オランダ語の通訳や、全国から西洋の学問を学びに来た学者達の協力を得て日本の調査、研究を行いその成果をヨーロッパに紹介しました。その中には長崎の自然、地理、歴史、風俗、美術工芸も含まれていました。シーボルトは日本に近代西洋医学を伝え、日本の近代化やヨーロッパでの日本文化の紹介に貢献しました。 鳴滝のシーボルト住居跡地に、シーボルトの史料を集めたシーボルト記念館が建っています。 ◆思案橋 現在は川は暗渠になり、橋は無い。欄干の模型がある。電車の停留所になっている。江戸の吉原に匹敵する長崎丸山の遊郭は、元禄のころには1500人の遊女がいたそうな。現在の長崎は国際観光都市でとてもクリーンな町です。 遊郭に続く橋が思案橋で遊郭に行こうか行くまいかと思案していたそうな。思案橋から丸山に行った所に、思い切り橋があり〔暗渠になってこの橋も現在は無い〕今は見返り柳が残っていて、遊郭に遊びに来た殿方と丸山遊女の物語を見続けていたのでしょうね。 思案橋ブルースの大ヒットにより、全国的に有名になった。 ◆史跡料亭花月 創業寛永19年、日本最古の洋間や、坂本龍馬の刀傷の残る柱のある広間があり、幕末の丸山の面影を残す料亭。800坪の日本庭園には四季折々の風情があり、先人たちの過ごした空間を思い出させる。 ◆中の茶屋 丸山の遊女屋「中の筑後屋」が江戸時代中期に茶屋を設けていた所.長崎ぶらぶら節に1節にも歌われている。 ♪遊びに行くなら花月か、中の茶屋、梅園裏門叩いて氏子がぶらぶら。ぶらりぶらりと言うたもんだいちゅう ◆出島 寛永13年〔1636年〕建造された人工の扇型をした島 安政6年〔1859年〕オランダ商館が閉鎖される218年間に渡り、我国で唯一西欧に開かれた窓口として日本の近代化に大きな役割を果たしてきた。 ◆日本26聖人殉教地 慶長元年〔1597年〕豊臣秀吉のキリシタン禁止令により、フランシスコ会宣教師ペトロパプチスタ神父他6名の修道士とパウロ三木他20名の日本人信者が処刑されたところ。 昭和37年26聖人列せい00年祭にこの26聖人の殉教碑と、史料を展示した記念館が建てられた。 ◆稲佐山 標高333メートル〔東京タワーと同じ高さ〕のこの山からは、長崎市内が一望でき、特に夜景は日本三大夜景〔神戸、函館、長崎〕の一つで1000万ドルの夜景と言われています。山頂には、NHK,民放各社のテレビ塔が建ち、市内を一望できる展望台があります。稲佐山公園は市民の憩いの場となっていて、野外ステージでは、毎年8月6日さだまさしの無料コンサートがあります。 ◆風頭山 長崎港を見下ろすこの山のふもとには、2社14寺が建ち並ぶ。日本最古の唐寺や中国の影響を受けた墓域が、山頂まで続いています。山頂には、長崎港を見下ろす坂本龍馬の銅像が建っています。長崎名物ハタ揚げの地で有名です。 ◆唐八景 稲佐山と反対側に位置するこの山には、公園が整備され長崎市街を見下ろす展望台もある。ハタ揚げ大会が開催される事で有名。近くには、市民の森もあり野鳥も多い。 ◆片足鳥居 坂本町の山王神社にあり、原子爆弾が落ちる前は、きちんとした鳥居で、4つあり、爆風で崩壊しその中の1つが奇跡的に片足だけ残っています。 ◆浦上天主堂 キリシタン弾圧に耐えた信者らが明治維新後30年をかけて建てた、石とレンガで出来た東洋一のロマネスク式大聖堂は原爆によって一瞬の内に壊れてしまった。昭和34年鉄筋コンクリートで再建され、昭和55年レンガで改装され往時の姿に復元された。堂の前にある被災した天使像が原爆の脅威を物語る。奇跡的に残ったアンゼラスの鐘は今でも現役です.浦上天主堂のホームページによりますと、原爆で天主堂にいらした2人の神父と24人の信者、9000人の浦上の信者の内2000人が亡くなられたそうです。 ◆平和祈念像 原爆犠牲者の慰霊と、世界恒久平和の願いをこめて、被爆10周年の昭和30年8月9日に完成した。高さ9、7メートル、重さ30トンのブロンズ像。長崎県出身の彫塑家 北村西望作。上に指した右手は原爆の脅威、軽く閉じた瞼は原爆犠牲者の冥福を、祈っていると言われています。 ◆原爆資料館 ◆如己堂 医学博士永井隆氏は、自ら原爆による白血病で苦しみながらも被爆者の救護に人生を捧げた。隣接する2畳ほどの小さな部屋は重体ながら10数冊の著書を通して平和活動を続けた博士の住まい。博士はここを「己の如く人を愛せよ」という意味で如己堂と名づけた。 ◆路面電車 ◆長崎の夜景 長崎県亜熱帯植物園〔サザンパーク野母崎〕 長崎半島南端部の野母崎にある暖地性の温暖な気候を活かした広大な県立植物園。東に国立公園雲仙を望み、天草灘に浮かぶ島々を眼下に、西に五島灘をひかえあた雄大な景観を有する。園内には、アフリカ、東南アジア、中南米、オーストラリアなどの地区別に分類され約2千種3万本の植物が植えられています。 軍艦島〔端島〕 長崎市沖に浮ぶこの島は、島影が戦艦土佐に似ている。戦時中に間違って米軍潜水艦の魚雷を受けたとか。 20世紀この島からは、「黒ダイヤ」として石炭が掘り出され、日本の近代化を支えて来ました。この小さな島に、多くの炭鉱労働者と家族がいました。炭鉱が閉山して、無人島となって4半世紀今はただは廃墟となった高層アパート群が建ち並ぶまさに海に浮ぶ軍艦のようです。今は定期船もなく、島を所有する企業は原則として上陸を認めていません。 この島を、世界遺産にする活動中だそうです。 |